富岩運河と竹島家

富山駅北・奥田地区にある“富岩運河”が計画・着工された頃、運河の船溜まり(現在の環水公園)〜中島閘門辺りにかけては、上新川郡奥田村(下新、上新、中島、下桑原、西川原、西田の6カ村よりなる)の一部で、まだ富山市ではありませんでした。当時この"奥田村村長”を務めていた竹島家14代目"寛"は、昭和4年から始まった「富岩運河」の掘削事業や、周辺の中島火力発電所大平洋金属、興人パルプなどの工場誘致、富山港と市街地を結ぶ大動脈「富岩街道」(現在の県道富山港線)の建設等に多大な貢献をしました。事業推進に当たっては自ら率先して土地を提供する等、工場用地と「富岩運河」全体の実に6割近くの土地が"竹島家”の供与だったと言われています。この様に“寛”が中心になって昭和2年頃から推し進めた一大事業が、昭和8年に合併した富山市に引き継がれ、後の富山市北部工業地帯、更には北部地域全体を発展させるけん引車の役割を果たす事になったのです。"寛"には運河掘削で出た土砂を現在の富山県庁、市役所周辺(当時は神通川の廃川地)の埋め立てに利用する事を提案したと言うエピソードが残されています。現在“富岩運河”に、ほど近い富山市下新本町には、近世から近代にかけて市北部地域の歴史に深く関わってきた“竹島家の住宅”が富山市指定文化財として保存されています。

平成4年当時の「富岩運河」船溜まり最奥部の風景(現在の富岩運河環水公園)

(市指定文化財竹島家住宅”の詳細については、右上リンク先「富山藩十村役・竹島家住宅」へ)