富山大空襲と竹島家住宅

太平洋戦争末期の昭和20年8月2日未明、米軍による空襲で富山市の旧市内全域が焼け野原になりました。最初から住宅密集地、市街地破壊を目的とした無差別焼夷弾爆撃で犠牲者数は2719人に達し、目標破壊率は99,5%、焼失率は全国1であったと記録に残されています。ところで指定文化財竹島家住宅」のある富山駅北側の奥田地域も空襲被害を受けた事は、あまり知られていないようです。「竹島家住宅」にも、焼夷弾が降り注ぎ、2棟の“道具蔵”の内の1棟と、裏門などが火災で焼失しましたが、幸運にも“主屋”“御成門”“長屋門”などの主要建造物は、難を逃れました。“米蔵”も焼夷弾の直撃を受け、置き屋根が全焼し、腰板の一部を燃やしましたが、本体の消失は免れました。その後、置き屋根は修復されましたが、焼け焦げた土壁・腰板の一部は、現在も当時のまま残っています。戦後67年も経過した現在、空襲体験者が少なくなり、人々の記憶が風化していく中、この“米蔵”は、残された数少ない空襲の“語り部”と言えるのかもしれません。


空襲の焼跡が残る「竹島家住宅・米蔵」の腰板





(指定文化財竹島家住宅”の詳細については、右上リンク先「富山藩十村役・竹島家住宅」へ)